夫・奥田寛、死の間際の心意気

平成7年7月のある日、筆者がアルバイトで使って頂いていた小料理屋さんに好江が顔を出しました。行きつけのお店でしたので来店は珍しくもありませんでしたが、この日は様子が違っていました。厳しい顔で入って来るなり「ちょっと」と筆者を表へ呼び出して、こう言いました。
「うちの人が入院したから。・・・これが最期の入院になると思う。」

翌日は、好江が講師を勤めていた専門学校の漫才実習発表会でした。生徒さんの発表の後、笑組がトリを勤めるというのが恒例になっていましたので当然ずっと好江と一緒。
前夜、動揺して励ましの言葉一つ掛けてあげられなかったので、せめて一声なりと思いましたが好江が一切その事を口にしません。ここは仕事場、当たり前。

『周りに気取られずに師匠を励ますにはどうしたらいいか・・・?』

 そこで、その日のネタを《病いは気から》というものにしました。そのネタなら話しの中で自然に好江を励ませると考えたからです。 そしてネタ中に舞台から正面に座っている好江に向かって言いました。
「病気なんて当人が治るんだって強く思ってりゃ治るの!大丈夫!!」

終演後、打ち上げ会場へ向かう途中に好江が隣へ寄って来て小声で

「クサいね〜やる事が。ありがと。」

中川という弟弟子がおりました。これがもうバカでバカで・・・バカでした。
あまりにもバカだったので、単独で旦那様を見舞う事を禁じられていました。
 笑組が中川を連れてお見舞いに伺った時の事。病室に入って来た中川を見た旦那様は
「中川。お前も好江に対して思う事があるだろうが、自分で選んだ師だ。飛び込んで行け!遠巻きに見てるだけじゃあいつの良さはわからんぞ!」

そして今度は相方氏に
「かずお。お前に頼まれとった子供の名前、考えといたぞ!」と紙を手渡し、
「気に入るかどうかはわからんが、人の道とかまっすぐな生き方という意味だ。
俺はいい名前だと思う!」

そして筆者に

「ゆたか。こないだお前が買って来てくれたパンツ、小さかった!」

結果的にこれが三人への遺言になってしまいました。・・・パンツって。
9月23日、午前2時半頃でした。好江から電話。
「うちの人がいよいよの様だから、かずおに連絡してあんた急いで来てちょうだい。」
 相方氏に連絡しておっ取り刀で病院へ向かいました。病室には好江と義妹さんのご家族。 「寛さん!ゆたかが来たわよ!」
筆者を認めた好江が言いました。
「こっち来て手握って声掛けてやって!」
何を言いましたかね・・・師匠を一人にしないで、という様な事です。 みんなで代わるがわる声を掛けました。 やがて静かになって、「ご臨終です。」

 「寛さん・・・どうもありがとう!

好江がそう言ったところで、相方氏が到着しました。
義妹さんが「かず君・・・間に合わなかった!たった今、兄貴逝っちゃったのよ・・・」相方氏は「嘘・・・」と一言だけ呟きました。
顔を上げた好江は奥田好江ではなく、内海好江でした。

「かずお。こっち来て旦那様にお礼言いなさい。お前一番迷惑掛けたんだから。」

号泣する相方氏。あの人が泣いてるのを見たの、あの時だけかもしれない。 一年後、一周忌を前に好江から連絡がありました。旦那様のお墓が出来たので一緒に来るように、との事でした。 大きな岩から切り出した繋ぎ目の無い立派なお墓です。そんなお墓は初めて見ました。 「凄いお墓ですね~」と言うと、好江が言いました。

あたしにもしもの事があったら 寛さんとここにいるから
余所へ行かずにここへ来てちょうだい。

翌年我が身に起きる事を予想していたんでしょうか・・・
旦那様の看病中、好江はこんな事を訊ねたんだそうです。

「しばらく仕事休んで傍にいようか?」

すると旦那様は、

「バカ。俺はこの30年、内海好江という芸人の一番の贔屓だったんだ。
そのお前をここに置いといちゃ贔屓の引き倒しだ。
俺をそんな野暮にしたいのか?だいたいそんなしおらしい女なら惚れたりせん!」

 奥田寛 平成7年9月23日永眠 享年57歳

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