入門

 昭和59年の秋から半年間、NHKの朝の連続テレビ小説は「心はいつもラムネ色」という漫才作家、秋田實先生の反省を描いたドラマでした。当然、秋田先生が育てて来られた漫才師たちも登場するわけで。
ワカナ・一郎、エンタツ・アチャコ、蝶々・雄二といった大名人たち。 子供の時分から漫才は好きでしたが、このドラマを毎日見るうちに「漫才師」が好きになりました。で・・・

漫才師になりたいなぁと。

でも、16歳になりたての頭が悪い高校生にはその手段が全くわかりません。ライブのネタ見せに行けば意外と簡単に入れるという事は後になってから知った真実で、当時の思考回路は「芸人=弟子入り」という大変に短絡的なものでした。
しかしながら、短絡的結論に至るにはもう一つ理由がございました。俗に言う「伝手」。ちょっとややこしいんですが・・・

当時、桂子師匠の弟さんが上野でスナックをやってらして、母のパート仲間の牧田さんの息子さんがそのお店へ行っていた。  

という確かな事この上ない伝手を辿り、昭和60年暮れ、未成年だった筆者は連れずにまず母がそのお店へ伺い話を聞いて頂く事になりました。
母が伺う事を事前にお聞きになっていたマスター(桂子師匠の弟さん)は「姉貴よりもヨッちゃん(好江)に」という事で好江を呼んでおいてくださったそうです。だから母は筆者より先に好江に会っているのです。
 「好江師匠に会っちゃった!着物着てた!格好良かったわよ~!三味線は持ってなかったけど!お正月に鈴本演芸場へ出てるから、あんた連れて来なさいって。『おっ母さんが弟子に入るんじゃないんだから!』なんて言うんだもん笑っちゃったわよ~」
帰宅した母がテンションMAXで捲し立てておりました。
いや~懐かしいですね~。
 明けて昭和61年1月6日、両師匠にご挨拶をして、入門が許されました。当初は高校を中退して入門するつもりでしたが、桂子師匠曰く「親のお金で学校行かせてもらってんのに中退なんてとんでもない!」道理です。
とりあえずは通学しながらの修行という事になり、放課後やカレンダーの赤字の日にお仕事先へ伺い、卒業式の翌日、昭和62年3月12日から正式な修行に入りました。
 もちろん毎日励みましたっ!励みましたが、何しろ頭が悪い18歳。至らない事ばかり。加えて当時、筆者100キロありました!
皆さん、桂子師匠の身になってみてください。用の足りない100キロのデブが毎日仕事場にいるんです。・・・いやでしょ?
これという目立ったしくじりは無いものの、半年後には筆者がいるだけで桂子師匠のご機嫌が悪くなるという最悪の状況に陥りました。ある日のこと、いつものように阿鼻叫喚の様相を呈している楽屋から、表へ出るよう好江に促されついて行くと・・・
「あんた自分で気付いてるだろうけど、お姐さん(桂子師匠)に嫌われてるよ。どんな事情があろうともそれはあんたが悪いの。あんたがお姐さんの傍にいるとお姐さんの機嫌が悪くなる。お姐さんの機嫌が悪くなるとあたしの仕事がしにくくなる」 ・・・
こりゃ波紋だなぁと思っていると好江はこう続けました。

「もしもあんたが、他の誰にも負けないぐらいあたしの用が出来るって約束するなら、今日からあんたの身柄、あたしが預かってやるけど。あんた、どうする?」 

これもう「宜しくお願いします。」しかないじゃありませんか。 その日のうちに好江から桂子師匠に話をしてくれて、内海好江の門へ移りました。
帰りの電車で好江が言いました。
「まぁ、お姐さんとの縁は無かったけど、あたしが漫才でいられるのはお姐さんが元気でいてくれるからなんだから、一応今まで通り師匠と思いなさい。それから断っとくけどね、 

あたしの厳しさは並大抵じゃないから、その覚悟はしときなさいよ」

・・・ここから本当の修行が始まりました。

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